アルフレッド大王と焦げたケーキ

アルフレッド大王(在位871~899年)。まだイングランドがいくつかのアングロサクソンの小王国に分かれていた時代、イングランドの南西部ウェセックス王国(首都ウィンチェスター)に君臨した王様です。他の王国が、次々とバイキング(デーン人)の襲撃に敗れていく中、最後に踏みとどまるのが、このアルフレッド大王のウェセックス。彼と、彼の子孫達が、後のイングランドの母体を作ることとなります。

父王エゼルウルフの第5男であったため、子供の頃は、王座はつがないものとして、軍事の他にも、学問にかなり力を入れ、ローマへ趣きローマ法王に謁見する経験もし。ところが、次々と兄達が死に、気が付くと、王様となっていた人です。王となっても学問を重んじ、行政にも賢明であったというのは、この幼少時の影響だと言われています。

さて、アルフレッド大王というと、ケーキを焦がして怒られてしまう逸話が有名ですので、ここで紹介しておきます。

バイキング(デーン人)たちは、キリスト教のイングランドの王国の祝日などを熟知しており、お祭り騒ぎの時に、不意打ちを掛けてくる、というちょこざいな手段を良く使っていました。877年、アルフレッド大王は、現ウィルトシャー州のチップナムでクリスマスを祝っている時に、デーン人の一大襲撃を受けるのです。この襲撃を、命からがら逃れ、側近の者達と、現サマセット州アセルニー周辺の沼地に逃れたアルフレッド大王。手作りいかだで、沼地の間を移動し、百姓の様に身をやつした姿で隠れ、デーン人から逃れる生活をしばし続けます。

この、デーン人から身を守るための、サマセットでの隠遁期間、アルフレッドは沼地の間のとある家で休憩させてもらう事を頼むのです。この家のおかみさんは、アルフレッドを室内に招き、かわりに、自分が井戸へ行く間に、焼いているケーキが焦げないように、見ていて欲しいと頼む。おかみさんが留守の間、アルフレッドは、火の前で、「いかにして、デーン人をやっつけようか・・・」と思いにふけり、ケーキの事など忘れてしまった。そして、おかみさんが、家へ戻ってみると、白昼夢にふける客人の前で、真っ黒に焦げたケーキが煙を上げていたわけです。怒ったおかみさん、アルフレッド大王を一喝。ほうきを振り上げて、王をたたいた、という説もあります。やがて、アルフレッドのお供たちが現れ、アルフレッドがウェセックスの王だとわかると、おかみさん、ひざまづいて、王の許しを請うのですが、それは、アルフレッド大王の事、「信頼を破った私が悪かった。そなたが怒ったのは当然である。」と太っ腹なところを見せて、お供たちと去っていくのです。当然、こういう逸話は、本当の話かどうかは定かでありませんが。

こうして数ヶ月姿をくらました後の、878年5月、兵を集めたアルフレッドは、ウィルトシャー州のエディントンにて、ついに、デーン人をやっつけるのです。そして、エディントンの戦いに敗れたデーン人のリーダー、グスルムを、処罰する代わりに、キリスト教に改宗させます。更に、ウェドモーアの協定で、ローマ時代に作られた、イングランド東西を走る道である、ウォトリング・ストリート(Watling Street)を境界線として使用し、アルフレッド王のアングロ・サクソンは、その南側、デーン人は、北側(デーンロウ Danelaw)を支配するという取り決めをします。処罰により、将来的に復讐襲撃を受けるより、グスルムを自分と同等の王として、敵を味方に変えたこの処分は、なかなか政治的に賢明な措置であったと言われます。ちなみに、ビー( by)などで終わる地名は、デーン人によって築かれた事を示し、デーンロウ内の北部イングランドに多い地名です。デンビー(Denby)などは、そのものずばり、「デーン人の村」の意。

ウェドモーア協定後、アルフレッドは、それまで、しばしデーン人の支配下にあったロンドンの再建を初め、軍を整え、更なる大陸からのバイキングの襲撃に控え、軍船の建設を進め、海岸線の防御に力を入れ、国内の法を整え、学問や知識の記述伝達を奨励し、大忙しの人生を送り、後の世に、大王と呼ばれ、最も優れたアングロサクソン時代の王様として、歴史に残る存在となるのです。

これは、最近、テレビのドキュメンタリーで知った事なのですが、イギリス人の愛国心をぐぐっと高揚させる歌、「ルール、ブリタニア」は、ジョージ2世時代に書かれたオペラ「アルフレッド大王」に挿入されていた歌なのだそうです。イギリスを体現する女神ブリタニアに、「ブリタニアよ、大海原を統治せよ、我ら、決して奴隷にはならぬ」と歌う、この曲は、バイキングに備えて、軍船を整え、ロイヤル・ネービーの大本を築いたなどという、アルフレッド大王の功績を歌ったものであると。オペラ自体は、もう演奏される事はほとんど無いのですが、「ルール、ブリタニア」は、ひとりだちし、毎年のように、ロイヤル・アルバート・ホールの夏季のクラシックコンサートシーズン、プロムズの最終日にも、熱狂的に旗を振る観客の前で演奏されます。
(「ルール、ブリタニア」および、「プロムズ」に関しては、過去の記事まで。こちら。)

さて、この冬は、比較的暖冬でした。東から、大陸の冷たい風が吹いてきた事はあまりなく、西からのジェット気流が舞い込んでくる事が主だったからです。比較的暖かい気流と共に、大西洋から、雨が沢山運ばれてきて、雨量が異常に多い冬でもありました。

この大雨で、イギリス南西部は、かなりひどい事となり、特に、アルフレッド大王が、デーン人から逃れていたアセルニーのある、サマセット・レベルズ(サマセット低地)一帯は、水浸し。

サマセット州中部から北部にかけて広がるサマセット低地は、もともと湿地帯で、紀元前4500年頃までは、海の下だった土地だという話です。大昔のご先祖様たちは、ぐちょぐちょのこの土地を横断するのに、木を使って足場などを作ったようですが、紀元前3800年ほどに遡る、こうした木製の足場の一部がまだ残っているのだそうです。もともと、サマセットという言葉は、夏の住民の意味があり、夏の間のみ、この地で放牧などを行っていた事からきた地名。上記の通り、アルフレッド大王も、いかだや、ボートで周辺を移動したわけですし。

年を経て、灌漑が進み、夏の民達は、1年中住むようになり、農業もさかんとなり。それでもやはり、海抜はかなり低い土地ですから、油断してると、今回のような大洪水となるのです。こんな大水の中では、アルフレッドのケーキも焦げるどころか、ぐっちょり湿ってしまった事でしょう。

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