革命の血に染まった広場(パリ紀行4)

写真は、チュールリ公園を西へ抜けたところにあるコンコルド広場。

ルイ15世によって作られ、王の像も建っていた当初の名は「ルイ15世広場」。フランス革命が勃発すると王像は取り壊され、替わりにその場に立つのは、ギロチン。そして、広場の名は「革命広場」へ。ロベスピエール自身が、ギロチンの犠牲者となった数ヵ月後、広場はトーンをやわらかくするためか、「コンコルド(調和)広場」へ改名。

ルイ15世も、自分の孫の首がここで切り落とされようとは、思ってもみなかった事でしょう。



この絵は、英国風刺画家、ジェイムズ・ギルレイ(James Gillray)によるもの。
The Zenith of French Glory;The Pinnacle of Liberty (1793)
James Gillray

1793年1月21日の、ルイ16世の処刑。ギロチンが落とされる寸前。血に飢えた蛮人として描かれているサン・キュロットがバイオリンを抱え、高い場所から、刃が落ちる瞬間を、異様な笑みを浮かべて待っています。革命中、あちこちで、貴族や僧侶の虐殺もあったそうで、何人かの僧侶が首をくくられ、ぶらさがり。

恐怖政治の真っ只中の時期には、この広場は、血のにおいが、消えずに、重く垂れ込んでいたという話です。

暴動、虐殺、建物の破壊の無法状態は続き、ナポレオンが、片づけを始める前の革命後のパリは、ぼろぼろ。通りも、セーヌ川も、ごみや汚物で溢れ、異臭を放って。花の都どころの話ではありません。

英国内では、革命初期には、革命派に同情的な意見もあったようですが、流血が広がっていくと、世論は反革命へ。ギルレイは、この他にも、サン・キュロット達が、人間の死骸をがつがつ食べている絵なども描いています。

王処刑後すぐ、1793年2月に、フランスは、英国に宣戦布告。以後、英国は、1802年から1803年の短期間の休戦時期を除いて、ナポレオン没落まで、フランスと戦争状態にもつれ込みます。

ちなみに、英国が、ナポレオンのフランスと、アミアンの和約により、1802年から約13ヶ月の短い休戦に入ると、イギリス人は、ここぞとばかり、大挙して海峡を渡り、革命が終わり、浮かれた雰囲気のパリへと、観光に流れ込んだようです。人間の物見高さは、いつの世も変わらず。
今、この広場に聳え立つのは、エジプトからもらい、1833年にこの場に設置された、3000歳以上のラクソーのオベリスク。写真の遠くに小さく見えるのはエッフェル塔。

長年の間、たいした被害も無く建ち続けてきたのに、パリへ移ってから、特に、過去半世紀の排気ガスや公害で、痛んできているという話です。エジプトにとどまっていた方が、綺麗でいられたのか・・・。

現在の広場にある噴水等も、オベリスクと同時期に設置されたものです。

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この広場と、更に西に行ったところにあるシャルル・ド・ゴール広場の凱旋門を結ぶ一直線の道が、おなじみの、おー、シャンゼリゼ。鼻唄を歌いながら、そのゆったりと広い歩道に踏み出してみましょうかねっと。

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