ロンドン大火

1666年、9月2日午前1時。ロンドン、シティのプディング・レインにあったトマス・ファリナー氏経営のパン屋のかまどから出た火は、みるみるうちに周囲の建物を飲み込み、広がっていく。The Great Fire of London(ロンドン大火)の始まりです。ちなみに、パン屋のあった、この通りの名前のプディングとは、デザートのプディングではなく、牛や豚等、家畜の内臓を指した中世の言葉です。

ロンドンは、前年の1665年には、黒死病(ペスト)の流行で、その人口の3分の1を失うという悲惨な目にあったばかり。そして666は、映画「オーメン」の悪魔の子ダミアンの頭にあった、あざでお馴染みの、いわゆる獣の数。この年、何か変なことが起こるのではないか、世界が終わるのではないか、という噂はあったようです。

が、当時のロンドンの狭い道に並ぶ建物は、ほとんど木造で、小さな火災は、わりとしょっちゅう起こっていたため、時のロード・メイヤーであったトマス・ブラッドワース(Thomas Bludworth)は、夜中に「火事です。」と叩き落され、ちらっと様子をうかがった後、「a woman might piss it out!  (あんなのは、女の小便でも消せるわい。)」と、そのまま床に戻ってしまったのです。

不幸なことに、この火災は、女の小便で消せる類の物とは、スケールが違った・・・・火は5日間、エリアを広げ燃え続け、約1万3千の家屋と、87の教会(うちひとつはセント・ポール寺院)、シティの5分の4のエリアを焼き尽くし、6日の明け方にようやくおさまります。家財を一切失い、ホームレスとなった人々は何千人と出たものの、火災規模の割に死者が少なかったとされています。火事が広がっていくのを防ぐために、まだ発火していない家々を、崩す作業なども行われたようですが、これには、時の王チャールズ2世も、市民と共に煤にまみれながら参加。

この火事でもうけたのは、荷車業者だったそうで、引越屋と荷物搬送屋としてひっぱりだこ。また、テムズ川を行く渡し舟漕ぎなども、火事が進行するにつれ、料金を吊り上げていったという記載も残っています。本屋などの経営者は、在庫の損失が大変なものだったらしいですが。

この出火元になったパン屋さんは、お咎めなしで、後、懲りずに再びパン屋業にもどったと言われています。相対して災難にあったのは、たまたまイギリスに来ていたフランス人。このパン屋に火をつけた容疑で逮捕され、少々、頭の足りない人物であったようで、「そうです、私がやりました。」と告白。実際、彼の罪を信じるものは一人もいなかったものの、罪を着せることができる人物、しかも外人が登場したのをいい事に、このフランス人は死刑。大体何かあると、外人のせいになる、というのは、どこの国でも同じ。カソリックのフランスはいつも疑いの眼で見られていたし、また、当時戦争中のオランダの陰謀と思う人物もいたようです。

今、この出火の跡地近くに聳え立つのは、大火を記念したモニュメントと呼ばれるコラム(上の写真)。内部は階段をくるくる上がって登れ、ロンドンの町並みを眺めることができます。私がこれを最後に登ったのは、もう10年ほど前だったでしょうか。今はどうだかわかりませんが、当時は上まで登ると、「登りました」のような証明書をもらえた記憶があります。先日、まだ取ってあるかと探しましたが見当たりませんでした。コラムのてっぺんには、金色の炎が模られています。これは、最初は、当時の王様チャールズ2世の像を立てる、という話があったものの、王様は、「火事を起こしたのは我輩ではない」と断ったため、炎のデザインとなったという逸話が残っています。

 このロンドン大火の様子は、当時の有名なダイアリスト(日記作家)で、チャールズ2世下の王政復古時代のロンドンの日常を描いたサミエル・ピープス(Samuel Pepys)によって記録されています。彼の日記は、当時の歴史を研究する者には、かかせない貴重な資料として、良く引用されています。オリジナルの日記は、内緒ごとも書けるよう、速記で記述されています。

ロンドン・シティーの東部に位置した自宅も消失するかもしれないと思ったピープス氏は、日記や家財をロンドン外に移動させ、また、自宅の庭に、ワインと当時まだ高価であったパルメザンチーズを埋めたという記述があります。幸い、氏の家は消失を免れますが。ピープス氏の大火当時の家と、彼が働いていた海軍事務所のあった場所は、今は小さなガーデンとなっており、1983年には、この場所に、彼の像も設置されました。

テムズ河上も、大事な荷物を船に乗せて逃げる人で溢れ、中には、ヴァージナル(鍵盤楽器)が船に揺られて流れていく様子も目撃され。

町中が燃える中、命からがら逃げるのに、さあ、自分なら何を持って飛び出そうか?財布と家の購入証明とモーバイルを鞄に押し込み、あとは、2,3日の着替えと食べ物と飲み物をボストンバックにつめ。大切な写真なども入っているPCや、小型の貴重品やその他書類は、ピープス氏の様に庭に埋めようか。家具はあきらめるしかない・・・。実際、こんな事をおたおたと考えている時間も無いかもしれません。

大火が始まったのが、プディング・レインなら、大火が終わったのは、パイ・コーナーという場所だった・・・と言われています。プディングに始まり、パイに終わる、という事は、「大火は、ロンドンの貪欲さに対する罰であったのじゃ!」と意見する人物もいたとやら。パイ・コーナーにある記念碑は、モニュメントよりずっと小さい、貪欲に対する戒めとしての、金色の太っちょの男の子の像です。

大災害のあった後は、争い、暴動、社会不穏などが良く起こるものですが、ロンドン大火の後は、多少のいざこざもあったものの、比較的温和に事が運んだと言う話を聞きました。

科学者として名が知られ、また建築家でもあったロバート・フックは、焼け跡の土地の調査測量をまかされ、丹念に公平に土地の切り分け。彼はまた、上に書いたモニュメントの設計者でもあります。

大火後の再建は、まず家屋から。以前の木造のものとはうって変わり、レンガを使った家が建てられます。道は、広げられ、初めて歩道も導入。そして、それから教会などの公共建築物の再建。災い転じて・・・と言うか、必要を叫ばれていたロンドンの都市改革が、大火のおかげで、一気に行われる事となったわけで。

焼け落ちた教会のうち約50を設計したのが、やはり科学者でもあった建築家クリストファー・レン。その中でも、一番有名なのは、もちろん、白いポートランド・ストーンを使用した、イングリッシュ・バロック形式の代表選手、セント・ポール寺院。完成は、1710年と、大火からかなり時間が経ってしまってから。レンは長生きして、その完成を見届けています。彼の遺体は寺院の中に埋められています。

セント・ポール寺院は、第2次大戦中、ドイツ軍の爆撃の対象となりながらも、無事生き残り。今日もロンドンのどんより空を背景に堂々と建っています。

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